八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」②

平山周吉(ひらやま・しゅうきち)
「僕は無智だから反省なぞしない」――戦後の小林秀雄は、このあまりにも有名な発言にはじまる。しかしその前、敗戦からの半年間、彼が何を考えいかに過ごしたのかは知られていない。年譜の空白部分を書簡や日記などから明らかにし、批評の神様の戦後の出発点を探る。

旧友・井伏鱒二への依頼

 北原武夫宛ての手紙を注釈しながら読んだので、手間取ってしまった。井伏鱒二宛ての手紙に進まなければいけない。昭和二十年の井伏宛て書簡は三通ある(いずれも神奈川近代文学館所蔵)。九月、十月、十二月と続き物となっている。九月二十日の消印がある書簡は、広島県の福山市外加茂村の疎開先に出された。

「御無沙汰してゐます、御元気の事と思ひます こんど創元社から文学季刊雑誌を小生編輯発行する決心をした。一つ力作を下さいな。

これからのジャアナリズムは、先づ妙な事になると思つてゐて間違ひあるまいと見当をつけました。爆弾から疎開する必要がなくなつたら、ジャアナリズムから疎開する必要が起りさうな気がしてならぬ。貴兄はどう思はれるか。こいつに持続的に対抗してかぼちやでも作る気でゐなくては、とてもまともな文化は実をむすぶまいと考へてゐるのです。季刊[雑誌]をさういふ発表機欄[機関]にしたい所存なのです。一つ助力して下さい。

厚[か]ましいお願ひをすれば、執筆者は少数に限りたい方針ですから、頁は存分にお使ひ願つて毎号でも書いていたゞければ幸甚なのです。何か一つ自信のある作を書いて下さいな。何んでも結構です

  創刊号シメ切 十一月上旬 

  稿料は 四百字詰原稿一枚廿円

                                 小林秀雄

 井伏鱒二様 」

 昭和初期の同人誌「作品」時代からの知り合いだけに、生き生きとした文章で、単刀直入に書かれている。小林は編輯者に徹している。締切りと原稿料を明示した原稿依頼書だ。創元社は、昭和十年(一九三五)ごろから小林が最も馴染みの深い出版社である。アランの翻訳、『ドストエフスキイの生活』、『文学』、『文学2』、『歴史と文学』、そして『近代の超克』など、小林の著作を一番多く出し、小林が企画の中心となった「創元選書」という一大シリーズを出していた。その創元社から、「文学季刊雑誌」を出す。締切りの時期からすると、年内にも刊行を開始する勢いではないか。井伏の返事が来たのは一ヶ月近くたってからであった。第二信は、十月十八日の消印がある。

1  2  3  4  5  6  7  8  9