八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」②

平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

高見順が見た小林

「小林秀雄来る。出版社「鎌倉文庫」の同人になること承諾。/「吉野さんの歌貰ったんだが、いいねえ」/吉野秀雄のことである。クォータリーの原稿である。小林秀雄編輯でクォータリーを出すのである。原稿料の足しにと、日産の三浦[徳治]君から十万円に相当する紙を貰ったという話をかねて聞いていた。

 吉野さんは会津[八一]さんの弟子である。会津さんは大変にきびしくて、吉野さんは入門して二十年目の今年の春、はじめてなんとかの許しを得たという。小林秀雄は嬉しそうに笑いながら、そうした話をした。なんとか――というのは、私が忘れたのである。世間に自分の顔を発表していい許しというようなものである。/「いい歌だぞォ、純粋で」/と小林秀雄はいった。/「あんたも是非書いてくれ。いまは忙しいだろうから、待つ。いくらでも待つ」/チェーホフ論を書けとこの前香風園でいわれた」

「日産」とは日産書房のことで、日産書房は昭和二十年代前半に、戦前に白水社から出た『文芸評論』正・続、芝書店から出た『続々文芸評論』、戦後の創元社から出る『モオツァルト』といった小林の著書を、どれも元本と同じ紙型を使って出した出版社だ。小田光雄『近代出版史探索3』によると、親会社が日産出版印刷といい、どちらも昭和二十五年(一九五〇)に破綻したようで、その時、小林は日産出版印刷の監査役となっていた。昭和二十四、五年には戦後の出版バブルがはじけ、出版社は軒並みに倒産する。

小林が高見に再三「チェーホフ論」をしょうようしているのは、高見からチェーホフ論を聞かされていたからだった。貸本屋「鎌倉文庫」に小林が出品した『チェーホフ著作集』で高見はチェーホフを再読する。高見の六月、七月の日記は、そのチェーホフの感想で毎日が埋まっていた。チェーホフが僻地のサガレン(樺太)に長期旅行をしたのはなぜか。チェーホフの旅を高見自身の問題に引きつける。「日本人における旅は、「救い」の問題と常に結びついている。その伝統的な旅の観念は現代にまで生きている。「暗夜行路」における旅が正にそれである」(昭和20・7・12)。

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